メディア担当の方
初めて輸入された1903年(明治36年)以降を、時代の流れとともに追ってみましょう。
日清戦争と日露戦争の狭間のこの時代。日本で初めてのゴルフ場が神戸に造られ、また、本格的な西洋式の公園である日比谷公園がオープンしたのも1903年。まさに、海外の文化に日本人の目が向いた時期でもありました。
同年、商品としてバナナが初めて日本に持ち込まれます。台湾の高雄州で生産された[北蕉(ほくしょう)]という品種で、篠竹製の魚カゴ7個に詰められ、台湾の北端にある基隆(キールン)港で船にのせられ、神戸に上陸しました。
やがて、台湾からの大量輸入が始まります。水揚げ港は台湾から地理的に便利な門司港。ただし、青い状態で大量に輸入されたバナナも輸送途中に蒸れて「籠熟(かごうれ)バナナ」という不良品になるなど、手っ取り早く売り切って換金する必要が生じたりもしました。そこで登場したのが、夜店や露天商などでのバナナの叩き売り。門司港駅前には、「バナナの叩き売り発祥の地」の記念碑が建っています。こうして、“安くてうまい大衆果実”として一般消費者に喜んで受け入れられていきました。
しかし、太平洋戦争が勃発し事態は急変。バナナは品薄になってしまいます。運搬船が戦況を鑑みながら航行するうちに、積み荷のバナナが熟し過ぎてしまい、全量処分となるような事態が続出するようになりました。しかし、その味を望む声は高く、代用品として干しバナナが登場しました。
しかし、最初は進駐軍用のものでした。その後、1950年(昭和25年)には輸入が正式に再開されますが、輸入制限などもあり、まだまだ貴重で高嶺の花の存在でした。
バナナが庶民の食卓に並ぶようになるのは、1963年(昭和38年)のバナナの輸入自由化以降のことです。
国産テレビアニメの第1号「鉄腕アトム」の放送が開始された年であり、高度経済成長時代の真っ只中です。スーパーマーケットが次々と出店され、翌1964年(昭和39年)に開催される東京オリンピックへの期待に、日本中が沸いていた時代でもありました。
時代とともに、需要も着実に伸びていきます。1957年にはバナナ味の子ども用歯磨き粉が登場し、1962年には童謡『とんでったバナナ』が一世を風靡します。こうした素地もあって、バナナは子どもたちからも大人気を博していたのです。
そんな人気に後押しされるように、1969年(昭和44年)には、輸入額が年間1億円を超える国民的経済物資になり、総輸入量ではアメリカに次いで世界第2位になりました。輸入する相手国も変わります。エクアドルからの輸入量が台湾を抜き、その後の1973年にはフィリピンからの輸入量が1位になりました。
また、果物の需要においても、年間購入量が1999年にはリンゴを、2004年にはみかんをと次々と抜き、バナナが1位となりました。
<参考>
株式会社ドール/ホームページ
バナナ大学
バナナと日本人(岩波新書)
バナナ学入門(丸善ライブラリー)
門司区役所総務企画課 門司港発祥「バナナの叩き売り」http://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/file_0067.html
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